アドラーの生涯

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0-1 アルフレッド・アドラーの背景

時代背景

1870年、6人兄弟の第2子としてアドラーは生まれました。
場所はウィーン近郊。世紀末ウィーンと呼ばれる時代の真っ只中です。
父はユダヤ人の穀物商で比較的裕福でした。
両親はブルゲンランド州のキットゼーという比較的多くの権利を保障された割と安全な地域の出身でした。
この地の多くのユダヤ人は貿易商としてプレスブルグのユダヤ人街とウィーンを媒介する役割を果たしており、 自分たちが少数の非迫害者であるという意識は希薄だったようです。
アドラー自身もまたアドラーの心理学もユダヤ的な特色はありません。 その証拠に、1904年にはユダヤ教からプロテスタントへ改宗しています。 (この改宗は宗教的な影響はないと述べています)
アドラーはユダヤ人であることについての感情的なこだわりはなかったのです。

家族関係

父との関係は良好でしたが、母とはあまり関係が良くなかったようです。
あるアドラーの伝記には、「母は冷たい人で、第一子のほうをかわいがっていた」、 「弟の葬儀の後母が笑っていたことが許せなかった」と記されています。
別の伝記には、このように記されています。 「最初の2年は母はアドラーを甘やかしたが、弟が生まれると母は弟に注目するようになった。アドラーは親の愛を独占していた王座から転落し、その影響から父の方へ気持ちが向かった」 後に、「母は子供たちを一様に愛してくれていたことがわかる」と母についての思いを訂正しています。

フロイトとの対立

アドラーより2歳年上の長男ジクムントとはあまりうまく行かなかったそうです。
アドラーはくる病でした。(骨の石灰化障害:骨が折れてしまいやすい病気) 兄は健康体のため、なんの躊躇もなく走ったり飛び跳ねたりしていたようです。
そんな兄に対してアドラーは羨ましく、苦々しい気持ちを持っていて、自分にとっては優秀で模範的な兄の影にいると感じていたようです。
このようにアドラーは病弱でしたが、外で友達と遊ぶことを好み、 友達思いで、どこにいっても人気者でした。やがてくる病は良くなっていきます。

0-2 弟の死から得た決意

アドラーの弟ルドルフはわずか1歳でジフテリアで亡くなりました。 (ジフテリア菌を病原体とするジフテリア毒素によって起こる上気道の粘膜感染症) 弟がジフテリアになった時、感染するという考慮が全くされず、毎日同じ部屋え寝かされていました。
さらに、なんと両親は医者に見せず民間療法のみで治療していたのです。 ある朝目を覚ますと、アドラーの隣で冷たくなっていました。

医者になる決心

アドラー自身がくる病であったこと、5歳の時に肺炎になって危うく死にかけたこと、弟の死。

これらをきっかけにアドラーに医師なる決心をさせたと言われています。早くから死問題に興味を持つようになったのです。
アドラーは大きくなったら5歳の時に何になりたいかと尋ねられ、医者になると答えました。 しかし、当時は医者という職業は世間的に評判が良くなく、医者と答える度に 「それなら君はすぐに最寄りの街灯柱に吊り下げられるだろう」と言われていたそうです。
しかし、アドラーは負けません。「確かに悪い医者は多くいるが、良い医者もいる。自分は良い医者になる」と胸に誓っていました。

中高一貫学校へ入学

10歳になると、アドラーはギムナジウムに入学します。 ギムナジウム(ドイツ語)は、ヨーロッパの中等教育機関で日本の中高一貫校に相当する学校) しかし、アドラーの成績はあまり良くなく、特に数学が苦手でした。
父親はそんなアドラーを見て、「成績が悪ければ靴屋の徒弟( 親方の家に住みこんで商工業の技術を見習う少年)にする」と脅していました。
その後アドラーは勉強に励むようになり、その後なんと1888年にはウィーン大学入学し、医学部を卒業します。

大学時代のアドラー

大学時代のアドラーは、患者への関心ではなく、実験や診断の正確さを強調する講義に退屈し、近くのカフェで友人たちとさぼっていました。
驚きの事実ですが、アドラーは1910年に精神医学に専念するまでは眼科、内科の開業医を目指していたそうです。
そのため精神科の科目トレーニングは受けておらず、フロイトが講義したヒステリーの講義にも参加してないのです。

0-3 社会医学への興味と結婚

社会医学への興味

アドラーは早くから健康・病気と社会的要因との関係を研究する社会医学に関心を持っており、 最初の著作は『仕立て職人のための健康手帳(1898年)』という公衆衛生に関する小冊子でした。
貧しい患者のために開かれていたクリニックで眼科医として働いていた頃から関心が芽生えたようです。

結婚

大学を卒業して2年が経った頃、ロシアの才媛で当時ウィーン大学に留学していたライサ・エプシュテインと結婚しました。
二人の出会いは社会主義の勉強会。ライサは社会主義を推していて、終始この立場を貫きます。 しかし、アドラーは社会の変革ではなく、育児と教育による個人の変革を重視するようになるのです。
そんなアドラーに対し、ライサは「彼の考えは甘い」と批判していたそうです。

結婚後に開業したアドラー

アドラーは結婚後に開業します。一日も休むことなく働きました。朝から夜遅くまで診察と勉学に励み、 夜は友人たちと議論をするためにカフェに出かけ、家にいることはあまりなかったとも言われています。
一方のライサは、家事と育児で大変忙しい日々を送っていたそうです。
当時のウィーンでは、女性が家事と育児を引き受けるということはウィーンでは当然のことと考えられていましたが、ライサはみずからも知的な議論に参加することを望んでいました。
アドラーの多忙さはライサにとっては不愉快だったのです。
そのため、後に設立されることになるアドラー自身のグループの会合において、ライサは秘書を務めることになります。 時には議論にも参加していましたが、二人の間に生まれた4人の子供の育児が負担となり、結局アドラーの活動からは離れていくことになります。

父親としてのアドラー

上記のように大変多忙な日々を送っていたアドラーでしたが、献身的な父親であったと言われています。

子供たちは家に訪ねてくる客人が父親と議論している場にいることを許され、 次の日に学校に間に合うことだけを条件に、いつ寝るかは子供たちの判断に任せていたそうです。

0-4 フロイトとアドラーの関係

フロイトとの出会い

1902年に発刊された”ウィーン自由新聞”の中で、フロイトが唱えていた『夢判断』について否定的な記事が書かれました。
その時アドラーはフロイトを擁護する投書を送ったそうです。 (アドラーが精神医学に興味を持ったのは、フロイトの夢判断を読んだことがきっかけだと言われている) この投書がウィーン自由新聞に掲載され、フロイトの目にとまります。

フロイトの研究チームに参加

上記のことがきっかけで、1902年、アドラーはフロイトから招かれ、フロイトの研究グループに参加しました。
このグループは、後にウィーン精神分析学会へと発展し、1910年にはアドラーが会長になるのです。
この時まではお互いに尊敬しあい、良い関係性だったのですが、1911年にアドラーとフロイトは、学説上対立してしまうのです。また医学に対する姿勢もアドラーとフロイトは大きく違い、研究を一番の重要度に置いているフロイトに対し、アドラーは医学を研究のためではなく診療のために選んでいたため、診察することを楽しんでいました。
共同で研究をするはずが、会員同士の競争が激しくなってしまったのは言うまでもありません。

アドラーとフロイトの意見の相違

アドラーは幼児の生活に困難をもたらすような身体的なハンディキャップのことを器官劣等性と呼び、 それの性格形成に及ぼす影響について研究していたのですが、やがて客観的な劣等性よりも主観的な劣等感へと関心を持ちました。
■劣等性⇒ある状況下において、性質的に劣っていたり適していない事実
■劣等感⇒自分で劣っていると感じること

アドラーとフロイトの決定的な違いは、神経症の根拠にあります。

アドラーは神経症の根拠として劣等感を、フロイトはリビドーを挙げていました。後にアドラーはこの主張を修正することになりますが、アドラーはこの交わることのない主張の相違に約30人程で構成されていた精神分析学会を退会します。(アドラーの主張に共感していた9人も共に退会しています)

多くの方が勘違いされていますが、アドラーはフロイトの弟子ではありません。 同じ研究チームにいたメンバーの一人だったのです。

0-5 アドラー学会の誕生

個人心理学会

アドラーは、1912年に「自由精神分析学会」という協会を設立します。翌年には名称を「個人心理学会」に変更し、アルフレッド・アドラーが提唱する正式な協会が設立されました。
「個人心理学」という名前にしたのは、人間を分割できない全体と捉え、統一されたものであると考えたからです。 精神と身体、感情と理性、意識と無意識など、フロイトが提唱していた人を二つに分ける二元論を否定した考え方といえるでしょう。

第一次世界大戦勃発

44歳のアドラーは徴兵を免れましたが、軍医として陸軍病院の神経精神科に所属しました。
入院してきた患者に対して、その後戦争に参戦するかどうかの判断をアドラーは任されていて、夜も眠れない程苦しい日々を過ごしていたそうです。

教育への関心

第一次世界大戦終了後、世間は社会主義への関心が強まります。
アドラーはこのタイミングで「政治改革」を試みようとしましたが、ロシア革命の現実を目の当たりにし断念します。

その後、ウィーンの中で青少年問題が浮上。アドラーはウィーン市に働きかけ公立学校に多くの児童相談所を設立するのです。
この相談所は子供や親の治療の場としてだけではなく、教師、カウンセラー、医者などの 専門職を訓練する場としても活用され、アドラーは自分のカウンセリングを公開して見せていました。

オープンカウンセリング

オープンカウンセリングとは、カウンセリングの様子を第三者に公開し、研修、訓練の場として開催するものです。他の人のカウンセリングを聞くことで自分の問題との共通性に気づき、解決の方向性を見て取ることができるというメリットがあります。

それだけではなく、相談している子供たちは聴衆に見られることで、 自分に注目が集まっていることを感じたり、他の人が共感してくれたりすることで、 自分が自分よりも大きな全体の一部であると感じることができるとアドラーは述べています。

0-6 アメリカへの旅立ちと死

アメリカへ旅立つ

アドラーは1926年から1927年の冬にかけてアメリカへ定期的な旅行を始めます。
ナチズムの台東とともにユダヤ人の迫害をおそれたためです。それに伴い、活動拠点をアメリカに移し始めます。
まず1928年にはコロンビア大学に招待され講義を開催。
1932年にはロングアイランド医科大学の教授になります。
始めは単身赴任のような形でしたが、1935年にはアメリカに家族も合流し移住する形となりました。

アドラーの死

アドラー家では大きな問題を抱えていました。
それは娘のヴァレンティーネが音信不通になってしまったことでした。どんな困難にも諦めるということがなかったアドラーですが、この事実はかなりのショックを与えました。
毎日眠れず、食べることもできず、どれだけ待ったか分からないなどの内容の手紙をヴァレンティーナに送っていたそうです。
そして、1937年、アドラー67歳。心臓発作で亡くなりました。
スコットランドの講演先のホテルで朝食を取った後、散歩中に歩道で倒れ、救急車の中で息を引き取ったそうです。

アドラー死後のアドラー心理学

アドラーはナチスの収容所に行くことはありませんでしたが、アドラー派の方たちは収容所に送られてしまいました。
そのためアドラー心理学は一度滅んだと言われています。

では誰がこのアドラー心理学を継承してきたのでしょうか?

もちろん一人に絞ることはできませんが、”ルドルフ・ドライカース”の存在が欠かせません。
ドライカースはアドラーに師事し、アメリカのシカゴを中心にアドラー心理学の普及に務めていました。

日本の普及

日本でアドラー心理学が知れ渡ったのは、2014年に発売された嫌われる勇気という一冊の本でした。
1984年、シカゴにあるアルフレッド・アドラー研究所から戻った野田俊作先生が「日本アドラー心理学協会」を設立していたのですが、あまり知られることなく時代が流れていたのです。
今日では、世界中にアドラー心理学が実践されています。日本では、ユングやフロイトの方が有名ですが、海外では現代の心理学の基盤を作った3大巨匠として知られています。


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